私は料理が好きです。
悲しい映画や音楽を楽しむように、料理の悲しさも楽しむことが出来ます。 料理にまつわる悲しさや悲壮感から目をそらし、料理=幸福・至福とばかり語られ、そのような本ばかりが書店に並ぶことに、私は以前よりいささか疑問を感じていました。マンハッタンやパリで起業・成功した人たちが、貧乏時代に通った安食堂にこっそり訪れるのは、その人々の味の嗜好のみならず。侘び寂びは日本固有の趣にあらず。
食材が調理されて料理と呼ばれ、皿に盛られる。切り分けられる。口に運ばれ舌に乗る。味蕾(みらい)を伝ったシグナルは、その個人の様々な経験・先入観や感情とリゾームし、一気に脳に駆け上がる。
料理とは味覚とはいったいいかに。 そうだ、悲観的に料理を捕らえて楽しもう。
食材が調理されて料理と呼ばれ、皿に盛られる。切り分けられる。口に運ばれ舌に乗る。味蕾(みらい)を伝ったシグナルは、その個人の様々な経験・先入観や感情とリゾームし、一気に脳に駆け上がる。
料理とは味覚とはいったいいかに。 そうだ、悲観的に料理を捕らえて楽しもう。
料理やアートなどの雑記
以前 大阪で小さなフランス料理店を営んでいた私は、料理を作る行為をこよなく愛しています。私にとってそれは非常に特別で、食べる事より作る事のほうがはるかに楽しむ事が出来ます。 しかし レストランを経営している時、食に関するさまざまな事柄に疑問を感じ、現在はサンフランシスコでアート作品を製作しています。
食べ物を食べずしてヴィジュアルイメージで味を感じること そして伝える事は可能でしょうか。 食べ物がプロダクト化していく中で、料理という一つの文化をイメージでの伝承なくして正しく文化の伝播は行われるのでしょうか。(味覚の視覚化)
多くの人は、悲しい映画や小説や音楽を その悲しさを自覚した上で楽しむことができます。 では料理の悲しさも踏まえて楽しむことができるはずです。料理の悲しさ?と疑問を感じられるかもしれません。しかし食にまつわる話は悲しい話の方が多いのではないでしょうか。食とは体内に食物を取り入れ栄養を摂取する行為。直接体に取り入れる為、その行為は非常に心身に影響を受けやすく、心的外傷と絡みやすいのではないでしょうか。 ゆえに、食の悲しさを あえて 踏まえて楽しめば、楽しみの幅が少し広がる用に思います。(自覚的な味覚と印象の混合)
もう 食物をこねくりかえして新たな可能性を提案する時代ではないように思えます。おのおので "食” にあらゆるイメージを加味して味覚を形成し、楽しむ方法を提案できれば、おのずとあらゆる食材を豊かに賞味する事へつながり 結果無駄な廃棄の減少につながり 経済的又は構造的飢餓の改善に微力ながらお力添えできはしまいか と、、御大層な夢をひめる うだつがあがらない元料理人芸術家のブログです。 具体例をあげながら、少しずつ更新していきます。。
食べ物を食べずしてヴィジュアルイメージで味を感じること そして伝える事は可能でしょうか。 食べ物がプロダクト化していく中で、料理という一つの文化をイメージでの伝承なくして正しく文化の伝播は行われるのでしょうか。(味覚の視覚化)
多くの人は、悲しい映画や小説や音楽を その悲しさを自覚した上で楽しむことができます。 では料理の悲しさも踏まえて楽しむことができるはずです。料理の悲しさ?と疑問を感じられるかもしれません。しかし食にまつわる話は悲しい話の方が多いのではないでしょうか。食とは体内に食物を取り入れ栄養を摂取する行為。直接体に取り入れる為、その行為は非常に心身に影響を受けやすく、心的外傷と絡みやすいのではないでしょうか。 ゆえに、食の悲しさを あえて 踏まえて楽しめば、楽しみの幅が少し広がる用に思います。(自覚的な味覚と印象の混合)
もう 食物をこねくりかえして新たな可能性を提案する時代ではないように思えます。おのおので "食” にあらゆるイメージを加味して味覚を形成し、楽しむ方法を提案できれば、おのずとあらゆる食材を豊かに賞味する事へつながり 結果無駄な廃棄の減少につながり 経済的又は構造的飢餓の改善に微力ながらお力添えできはしまいか と、、御大層な夢をひめる うだつがあがらない元料理人芸術家のブログです。 具体例をあげながら、少しずつ更新していきます。。